【書評】
作者:歌野 晶午
出版社:講談社
発売日:2001/11/15
『何も考えたくないし、考えられないけれど、本はよみたい』
千島列島に、根源的な恐怖心があります。これは思考を拒否するたぐいの恐ろしさで、地図で俯瞰的にその概景をたしかめてみても、写真で島影ひとつながめてみても、心の底へつめたいものが横たわっていることをふつふつ感覚する、そういう苦手さであります。
《大航海時代》というゲームがあって、携帯電話に移植されたときぽちぽちやっていたのだが、ヨーロッパからスカンジナヴィア半島を北上し、北極海を息もたえだえ東進し、アラスカのわきを転回して北海道をめざす冒険的な道すがら、通過するアリューシャン列島から千島列島は本来であればあとすこしという希望の先走り、その滴りであるような島々であってもよいはずだのに、なんとも心ぼそい、エポケーから現象学的還元が行われるその途上にあるものというか、生命の孤独さに凍りついたような存在におもわれました。
たとえば、そういう千島列島を自分が旅する機会があったとして、そのとき何んの本をよむでしょうか。これは想像もしづらいのだが、上記のごとき不安定な精神状態でよんでみてもきっとおもしろいのが推理小説だとおもっております。推理(探偵)小説というものは、魅力的、かつ素敵な謎がまず提示され、その謎のこたえを知りたい一心で強制的、半自動的に最後までよんでしまうもののことであります。
歌野晶午について。
一方、往々にして、「衒学的な傾向をそなえ、頭がわるくなりそう」とか、「悪文でよめない」とか、「主人公の探偵が恰好よすぎて鼻につく」とか、「ご都合主義的な展開に心が反発していやだ」とか、そういうケースが多いのも否定できないジャンルであるのだが、歌野晶午はまずふつうにうつくしい文章をかく、「そうではない」作家のひとりだとおもっております。
《葉桜の季節に君を想うこと》が有名だが、これはあまりすきではなくて、いってみれば歌野晶午の歌野晶午らしさだけで出来上ってしまい作者がふざけすぎというか、仮りに、歌野晶午が味付けや調味をわすれてしまったらこんなふうだろうという正しくそういうふうであって、おすすめできません。《死体を買う男》は、自分が最初によんだ歌野晶午であるから、まずここではこの本を紹介いたします。萩原朔太郎と冒険する江戸川乱歩、「乱歩の未発表原稿」という体裁と、まるで島田清次郎かだれかのような現代作家とが織り成すサスペンスであります。
歌野晶午らしさについて。
本書もまた、「頭がまったく死んでいても、よめてしまう」推理小説の個性をそなえており、その上で、歌野晶午らしさというと以下のように考えております。
(1)明晰で余裕のある、よみやすい文章。(2)緻密に仕組まれた矛盾のない構成。(3)親切でいやみのない展開。(4)一冊ごと、固有に練り上げられた特色のある謎・仕掛け。(5)明るいしめっぽさといった、飄々とした雰囲気。
「スマートな推理作家」というこの印象は、《安達ヶ原の鬼密室》《ブードゥー・チャイルド》とよみすすめてもかわらず、誠実な作家だな、というのが、この作家に対するひとつの評価であるとおもっております。この「誠実さ」は、たとえば村上春樹の小説に対する姿勢にちかいものがあって、適当に書きながさない、ひとつひとつ、きちんと作者の意図を感じさせるといったたぐいのものであり、横溝正史、島田荘司、有栖川有栖といった小説家がすきであれば、きっと気に入るのではとおもっております。
なお、今回の書評にあたり本書を十数年ぶりに再読したが、記憶にあるよりは平坦で、推理小説ってたとえば栄養ドリンクに似ていると感じました。くたびれるほど人生に飽きたという時期に、おすすめです。