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「項羽と劉邦」/司馬遼太郎

【書評】

「項羽と劉邦」

 作者:司馬遼太郎
 出版社:新潮文庫
 発売日:1984/9/27


『愛情への渇望に対する魔法の杖』

 

 長期休暇の最終日というものは、勿論さみしいもので、とくに直截な理由もないが夕方喫茶店の窓ぎわの席へすわりぼんやりなどしていると、自分が可哀そうになってきてなおさらさみしい。このさみしさへ理由をつけることもできるけれど、理由をつけず丸呑みすることもできて、丸呑みするとつまりそういう素直な感覚が人間らしいということになります。

 この人間らしさを、丸呑みしたままうまく表現するのが司馬遼太郎であって、司馬遼太郎の登場人物はみんなさみしい。社会へ出る以前なら、土方歳三が恰好いい、明治の日本はつよくて恰好いい、真田幸村や毛利勝永が乾坤一擲で恰好いい、司馬史観は格好いい、それですむけれど、それだけでよんでいてももったいない作家であります。《おお、大砲》と迷ったけれど、自分が最初によんだ司馬遼太郎である本書をここでは紹介いたします。

 螢陽城の戦いというのがあって、紀信というひとがいる。偏屈者である。ひとより愛情が深すぎたためおもわず偏屈者になった。偏屈者だが、さいごはほんとうにだれよりも自分が愛するものと出あい、舞台が与えられ、その愛情深さと偏屈との極北で殉じていく。紀信には周苛という親友がいる。周苛がいのちを棄てて紀信を庇い、感極まるくだりは、大谷吉継が石田三成のために挙兵する場面のようにうつくしい。こうした恰好よさに触れたとき、心がうごくのは、ひとはだれもが仕合せになるべきであり、その権利を棄てず生きた人間がついに報われたとおもうからだ。人生のおわりに真実をつかまえた奇跡を自分のことのように心から祝福するからである。こういう人間がすきだ、よかった、と、自分でも気づかぬまま所有していた己の無垢な愛情へおもいがけず心づく体験であります。

 大阪のひとらしい、というと陳腐だけれど、その人間に対する愛情とユーモアとが司馬遼太郎の真骨頂であります。別ページでは、カミュの《異邦人》を「世界と和解する小説」とかきましたが、これもまたひとつの「世界との和解」であり、本来、己のなかにしか存在しない愛情というものへ飢えたとき、司馬遼太郎の小説はいっそうおもしろくよむことができるようにおもわれます。

 

 

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