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「李陵・山月記」/中島敦

【書評】

「李陵・山月記」

 作者:中島敦
 出版社:新潮文庫
 発売日:2003/12


『あかるさのおすそわけ』

 経営者というものは実際さまざまなタイプがあるものだが、これは組織の上に立つものだから、という実際的な事情があって、翻ってみるとべつに組織化が経営者の存在意義ではない。とはいえ、実態として組織化はもはや集団の前提のようになっており、この結果ドラッカーの「哲学」が経営者を自由にした、というほうが正しいようにおもわれます。
けれど、「和を以て貴しとなす」という経営哲学があるのなら、むしろ経営者の理想は天照大御神、あるいは天皇ではないか。その実践は、以下である。

(A)メンバーのモチベートが唯一の仕事。

(B)その仕事に対する唯一の技は、「宣り直し」。負の感情をすべて正に転ずる。

(C)ピンチのときは先頭にたって戦う(意思がある)。

(D)ひきこもると世界が暗くなる。

(E)基本的にあかるさのかたまりである。

(F)ただひとつのタブーが「死」であって、これがみえかくれするととても怒るのだけれど、その際の怒りかたは「面会謝絶」だ。

 はたして、「日本的な組織」がいまの世情へ即しているのかわからないが、もし「日本的な組織」というものがあるとすれば、そこに求められる経営者はつまるところ「天皇」ではないか。
こんなことを考えたりいたします。

 かつて、最も正しい日本語をかいたのは中島敦、という説があって、森鷗外と中島敦とはうつくしい日本語の象徴のようである。

 また、中島敦に《弟子》という短篇小説があり、これに孔子が出てくる。人間的かつ超人的という孔子像は、日本人の好むところだが、自分も一とき非常に惹かれた時期があります。松下幸之助や稲盛和夫がすきで、同じように孔子もすきだ。

 中島敦が南洋系の作家であるという事実がどうもしっくりきていなかったのだが、すこし前に《弟子》をよみなおして、ふと心づいた。中島敦がかいた孔子は、きっと天照大御神のようであるし、その本質はたしかに「あかるさ」であります。死に際して、泣きながら「あたまのなかにあるものを、ぜんぶ吐き出したい」そうくり返したという何んだか悲惨なエピソードも、そのあたまのなかにあるものはおそらく明るい平和への憧れであったとおもえば救われなくもない。あかるさを希求するものは、かならずそのあかるさを身に纏っていくものだからであります。中島敦の小説をよむということは、かれのあかるさのおすそわけを受けるということであるようにおもわれます。

 

 

 

 

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