【書評】
作者:阿部和重
出版社:講談社文庫
発売日:2010/2/13
『歌というもの』
近親がNHK交響楽団の定期会員であり、ときどきそのチケットがまわってくる。昨日は、十二月の公演で、《カルメン》のチケットがまわってきたからいってまいりました。
そもそも、オペラというものがきらいで、
「なぜ、いちいち歌なのか?」「なぜ、あんなにも大仰に歌うのか?」「話しのすじに対して、展開が乱暴すぎやしないか?」「美男美女にみえないひとが、美男美女役であるのはなぜか?」等々、心が拒否するものがあって、これまで殆どきかずにまいったというわけである。心境の変化があって、《闘牛士の歌》はすきだし、久しぶりにききにいってやろう、そういう心持でありました。
勿論、結果からいうととてもたのしかったというわけであります。
「なぜ、いちいち歌うのか?」という素朴な疑問に対しては、「そもそも歌というものがそうだから」という当然の理屈に心づき、むしろ節のない独白のほうが気色わるいという事実に気がついた。
《カルメン》の特徴は、以下のようであります。(※原作者のメリメについては、べつで取り上げたいとおもっており、ここでは歌劇版、ということになります)
(A)愚かしいひとしか登場しない。
唯一の理知的な存在がカルメン、ということになるが、こうした有象無象の愚かしい群集のダイナミックな動きというものは、まるでロシア文学を可視化したようなところがあって、たいへんおもしろいものであります。おもしろい、というか、そういうものを直視するためには、文学であればユーモアが必要で、いわゆる《滑稽と悲惨》という表現になるのだとおもわれるけれど、オペラではそれが歌になる。そういう感じがありました。
(B)理知的なものはさいごに死ぬ。
愚かしさというものが、ありとあらゆる生物の本分であるということは、そもそも愚かしさというものが理知によって仕組まれたものだから、という事情によるものかとおもわれる。《カルメン》では、理知的なものはさいごに死ぬ。ここでいう理知とは、自由のことであって、自由に殉じて死ぬ。こういうお話しであります。こういうと身も蓋もありませんが、愚かしさと向きあうためには、やはりユーモアや歌が必要であります。
(C)大人とは、子供がおおきくなったものだ。
第三幕のミカエラの歌には、《悲歌のシンフォニー》をおもいだしました。こういう一方的かつ深刻な表現もまた、歌にゆるされた特権かとおもわれます。また、児童合唱隊の清冽さは、大人の不浄さを浮き彫りにするようであり、子供と大人と双方の愚かしさは、つまるところ表裏一体である。逆説的にいえば、大人も子供も結局なにもかわらない、生きている、そういうことを肌感覚で理解させられる。
かくのごとく、ひとの一生のありさまをポジティブにつたえてくれるものが《カルメン》でありました。
一方、《ミステリアスセッティング》には、ある意味で理知的なひとしか出てきません。けれど、それはまた愚かしさの裏がえしであって、つまり文学とオペラと表現形式が異なるというだけのことであって、理知的なものにはユーモアがある。主人公のシオリは、歌がだいすきで、歌いたいけれど歌えない女の子であり、その少女がさいごにたどりつく、「いろんなこと、いっぱいいっぱい考えて、全力で頑張ってみたけど、こうするしかなかったよ」という絶唱は、文学が歌ったもっとも美しい歌のひとつであり、まさにシオリの「歌いたい」という願いが歌わせた白鳥の歌であったのかと、そんなふうにおもわれて、泣けます。新橋に《アルテリーベ》という料理屋があり、大学生のころ、父親と出かけたことがある。父親からすれば、いってみれば青春のお店ということになるらしい。お店では、ホールを給仕してまわる店員たちが、三十分間に一回、とつぜん歌いだす。それをくり返すにつれ、お店全体へ熱気が浸透し、もう何回目かの歌は《闘牛士の歌》であって、これはよくしらないとなりのテーブルのひとと半強制的に肩を組まされいつしかお店にいるみんなで歌っている。シオリは、ほんとうはそういうことを望んでいたのだと、ふとそうおもうと、さみしくて泣けてまいります。