【書評】
作者:カミュ
出版社:新潮社; 改版
発売日:1963/7/2
『世界と和解する』
すこしおはずかしい話しですが、自分の卒業論文のテーマが《異邦人》でありました。参考文献は新潮文庫の一冊きりだった。仏語のよめない仏文生であった自分にとっては、窪田啓作の翻訳がすなわちカミュであって、もとより、「きょう、ママンが死んだ」ではじまる《異邦人》は、ジャック・デリダに指摘されずとも新潮文庫にあるものが世界で唯一のものだ。中村光夫でもなく、窪田啓作の翻訳したものが、自分にとっての《異邦人》でありました。
いま、その文庫本が手もとにありますが、当時重要とおもわれるところへ線を引っ張った形跡がある。すべてのページへ線が引かれており、とくに、第二部へはいり終焉に向かうにつれ、ほぼすべての行へ赤線の引かれるありさまが確認できる。あらゆる箇所へ意味づけが可能であるという点においては、その他あまたの名著と同じく、まったくの無意味と切り捨てることも可能な、緊密かつ弛緩した小説、それが《異邦人》であります。こういう小説に対しては、よむかよまないかの二択しかないわけであるが、そのころ、はたらいていたシングルモルト専門のお店で、お客様のいない夜に、白髪のマスターと二人きりでカウンターにはいっており、マスターが、
「ムルソーは、さいごに世界と和解したんだ」というようなことをいったのでありました。それで、自分の卒業論文も「ムルソーは、さいごに世界と和解したのだ」ということだけを述べたものとなりました。
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カミュの《異邦人》は、どういう小説?
と、いま問われても、「世界と和解するお話し」そのようにこたえます。世界との和解、これは、学生にとってたいがい一大事でありますが、和解していまようやく生きているかのような社会人にとってみても、たえず頭をよぎってやまないそういう主題であります。つまり、ポジティブな空想へ焦点をあわせる、考えることをやめて行動する、自分の正義をまもろうとする、趣味に没入するための集中力を養おうとする、こうした、連綿とつづく日常にあるひとつひとつが、つねに世界と袂別し、和解し、をくり返す。それでも、人生の節目にはある程度の規模の未来をひき連れた自己の再定義が行われ、この再定義された世界のもとに次ぎの五年か十年か三十年かを生きるわけでありますが、こうした節目によみたい小説が《異邦人》であります。
それはたとえば、非常に暗い半地下のお店で、奥側の壁いちめんに無音で映画が投影されつづけている。店をいっぱいに仕切る、すこし厚く、すこし高いカウンターの向こうで、マスターのことばをきいた自分としては、ムルソーのさいごの物語は涙なしによめないものである。和解は唐突におとずれる。ムルソーは、ひとが世界と和解する一連の事件をかたり、死へ赴く。ひとがあたらしい世界へ移入するとき、だれもがムルソーのようにすこし傷つき、また望みを所有し、歩をすすめるのだとそうおもいます。そのとき、慰謝を与え、勇気をくれる小説が《異邦人》であります。