【書評】
作者:三好達治
出版社:講談社文芸文庫
発売日:1996/9/10
『詩という形式の蓋然性』
中学生のとき、以下の詩をならった。
蟻が
蝶の羽をひいて行く
ああ
ヨットのやうだ
詩人というものは、いったい何んとつまらぬことをいう人種だろう、そうおもいました。オーケストラの指揮者と詩人とは、中学生くらいまで、充分侮蔑の対象になり得るとおもっております。
指揮者でいうと、たとえばジョージ・セルのCDをきいて、その整然とした音楽、つめたくて逆に火傷するみたいに熱いとでもいうような求心力に、クリーブランド管弦楽団の合奏力、それを必要とし、組みあげたセルの意図とちからとを感じ、おぼろにその存在感を意識するようになる、そういったたぐいの体験があるようであります。詳細をおぼえていないが、今年(2018年)亡くなったブーレーズが、ロシアかどこかの楽団をひき連れ来日したとき、かれの一挙手一投足、些細な指のうごきへ反応し音いろをかえていくオーケストラを目の当たりにして、音が可視化されるような、指揮者というものはすごいものだ、そのようにおもったことをおもいだします。
詩においては、そのばからしさと技巧とがなまのまま出てくる詩人、それが三好達治であって、詩人のいったいなにが詩人であるかを理解するのに手っ取りばやい存在である。冒頭の詩は収録されていないが、《測量船》がいちばん青臭くて、すきです。萩原朔太郎、大手拓次、中原中也、八木重吉、安西冬衛、吉田一穂、石原吉郎、生野幸吉、抒情的な詩人はたくさんいますが、詩という形式をその必要性の分だけつかい切ったような詩集、逆説的にいうと、詩という形式の蓋然性を浮き彫りにするような詩集が《測量船》であります。
冒頭の詩《土》は、地べたにはいつくばって、おでこのあたりでよむと、胸のすくような、またすこしほろ苦いような、それは青春の風景がよみがえってくるようである。三好達治の詩は、よむひとにいつでも青春をおもいおこさせるようであります。