【書評】
作者:大岡昇平
出版社:講談社文芸文庫
発売日:1989/2/6
『詩をよむということ』
双方向の二本の矢印より安定性にすぐれるためか、三角関係という人間関係はすぐできあがってしまうものらしい。できあがったとき、ひとつの特徴があって、男性ふたり・女性ひとりの関係においては女性が憎まれ、女性ふたり・男性ひとりの関係においてもやはり女性が憎まれる。後者においては、明確な対決の構図が完成するため、非常にかしましい。前者は逆に奥歯でなにかかみ殺しているような、沈潜というか、なんともいえないうすら笑いというか、恋愛感情が後退してむしろ仲間意識が生ずるとでもいうような、そういう状況が生まれるようであります。
詩をよむということは、詩人に目線をあわせる、あるいは、自分の心や体験へ詩人のことばをみつけるという行為であって、中原中也に目線をあわせてみると、だれでも男性ふたり・女性ひとりの三角関係のただなかにいるような表情をしていることに気がつきます。
長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
大岡昇平の《中原中也》をよんだあとでは、こういう詩句がたまらなくつらい感傷となり、胸の中へ深刻なルフランを反響させる。Gavin Bryarsの《Jesus’s Blood Never Failed Me Yet》とか、アルヴォ・ペルトの《断続する平行》とか、そういう音楽が深いところで鳴っていて、ただ実態は、小屋みたいなお店でのんびりお酒を酌んでいるとでもいうような感じになる。
大岡昇平とか、河上徹太郎、檀一雄とか小林秀雄の証言するところによると、中原中也とは以下のようなひとでありました。
(A)お酒をのんで、出会いがしらにビール瓶でひとを殴る。
(B)お酒をのんで管を巻く。となりにすわっているひとへ執拗にからむ。すぐ喧嘩する。
(C)よく喧嘩をするが、したとたんに投げとばされるのはいつも中原のほうだ。「ちっ、わかったよ。おめえは、つええよ」的な捨て台詞を吐く。
(D)左記のごとき中原中也が通うと、お店が一年たたずつぶれる。
(E)海棠をながめている小林秀雄の心を勝手によむ。
(F)親友とおもっていたひとが死に際して、「中原には知らさんでくれ。あいたくない」というようなことをいう。(じっさい、仲間はずれにされて死に目にあえなかった)
(E)徹底的にからんだためきらわれていた太宰治に、死後「段違いの天才」といったなつかしまれかたをする。
等々。
詩というものがあって、いったいなにがおもしろいかとおもう方もいらっしゃるかとおもうが、つまり、自分がそうならなかった人生を生きるということ、そうなったかもしれない人生を感情的に体験すること、詩をよむということは、そういったことかと考えております。
本書をよむと、きっと中原中也の詩がすきになり、ひいては詩を理解するということになるかとおもわれます。中原中也の冒険的な人生を追体験できる、怖いものみたさとでもいうような一冊です。